日記2000年5〜9月
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2000年9月20日 「よくやった!」
日記も丁度1カ月もサボってしまった。仕事の忙しさや五輪に夢中で手をつける暇がなかった。もう日々五輪漬け。田村に野村に中村に田島、野球にソフトそしてサッカー!毎朝スポーツ新聞買うのが楽しみな日々を送っています。残念なのが女子競泳陣。中村が惜しくも銀、平泳ぎ田中雅美さんも調子が上がらない様子。田中さんには21日の決勝で吹っ切れた泳ぎを期待しています。田中も萩原も最後に嬉しい涙になればいいと願ってます。サッカーも楽しみが繋がり、野球もソフトも快進撃を続けている。そして期待の女子マラソン。根性ある山口やクレバーな市橋も大好きなのだけど、なんと言っても天才高橋尚子に2時間20分を切る嘘みたいな記録を出して欲しいのだ。まったく楽しみが尽きない。もうプロ野球で何処が優勝しようがぜんぜんかまわないって思ってしまう西武ファンのオレだったりする。くれぐれも讀賣様も白けた優勝が霞んでさらに白けないように心がけて欲しいものです。
2000年8月20日 「仕事選べよ」
ワタシの母校は何気にドラマの撮影で利用されている。「ひとつ屋根の下2」では大路恵美(小梅だっけ?)が通う大学として使われ、私もそのロケ現場で大路恵美をじっとり眺めていたものだ。「大学→大学」、これは普通の例。母校のキャンパスは白い建造物が林立する様相でかなり無機質に見えるので、聞いた話では「病院」として撮影に供された事もあるようです。「大学→病院」、うーんこれはちょっと変な例。ワタシは土曜日の深夜にパソコン作業をしていたのだが疲れてしまいテレビを付けた。そしたらなにが主題なのかさっぱりわからん邦画(スーパーマン的な超能力を持つ白人を秘密結社が追うみたいな)が放映されていてなにげなく見ていた。その秘密結社に日本人カップルが洗脳されかけていて、その外国人に救出され逃亡する。その逃げ出した建物がなんと我が母校だったのです。なんと人格改造とか遺伝子操作の工場という設定だったようで、化学工場の従業員的でありショッカー的でもある工員がわらわらいた。「大学→洗脳工場」、もはやなんと言ったら良いやら。構内にトンネルがあって逃亡シーンにも活用できてよかったネ、くらいなもんである。多分10年くらいは前の撮影だと思うが、当局ももっと仕事を選んでいただきたいものだと真夜中につくづく感じた。
ところでワタシの母校の高校は日テレの「教師夏休み物語」という石橋凌主演のドラマで使われ、夏休み明けに鷲尾いさ子が座ったベンチだとかなんとか騒いだ記憶がある。ちなみに「教師夏休み」は未だ一度も再放送されていない。教師モノドラマって古くは「金八」新しくは「GTO」、当ればデカイがモチーフとしては難しいのだろう。ワタシは見てないが「伝説の教師」はアタリかスカか、評価を待ちたいところだ。
2000年8月15日
55回目の「終戦記念日」です。私事ですが先日からのめまいなどの体調不良のために起床できず、残念というか無念ながら「黙祷」をささげる事が出来ませんでした。漸く床を離れてこうして日記をつけている次第です。
ysugaさんもご覧になったようですが、昨夜の「平成のよふけ」に連合艦隊作戦参謀であった奥宮正武氏(91歳)が招かれていた。急いでフランスW杯のビデオを消して録画したのですが途中からしか記録できませんでした。太平洋戦争体験者で将校級の人々は数えるほどしかご健在でない訳で、非常に貴重な話を聞けたのだと思う。戦時中の逸話なども聞けたが、今後の日本を憂いている気持ちを披瀝されたところに、その内容や方向性を越えて非常に重みを感じられた。「英霊」がなにを思い死んでいったか、戦後日本人が何を思い生きてきたのか、今後日本人は何を思い生きていくべきなのか、奥宮氏・笑福亭鶴瓶・香取慎吾の3者に象徴されているようにも思われた。まったく年寄りの話は、戦争経験世代がご健在の今のうちに善くも悪くも沢山聞いておくべきだと感じられた。
2000年8月9日 「再び55年」
今日で長崎原爆投下そしてソ連軍が日ソ中立条約破棄で「満州」に侵攻して多くの民間人が犠牲になってから55年目の日です。55年前のその日を想像するに、そして身や心に大きな傷を背負い死んでいったり55年間生きてきた多くの人々に対して、ワタシの心事など誠に寡少なる想像力に過ぎませんが哀惜に堪えないです。
2000年8月8日 「カミナリ様」
ほんとここんトコ、夕立というかカミナリが多くて困っちゃいますね。先日「本業」の仕事先で日中の落雷で停電しちゃって、空調効かないは水は出ないはトイレ使えんはなにやらで3時間、今年はホント特に暑いせいか夕立多いですよね。こう落雷が多いとパソコンもオチオチ使えないし、だからHPのアップや仕事も深夜にって事で生活リズムがずれるし、ああっただの愚痴になっちまった。
カミナリさえもエンジョイしちゃうぜっていう奇特な方がいらっしゃったらご一報下さい。
2000年8月7日 「八百屋の前で」
昨日は「副業」の日だったのですが、ちょっと「困っちゃうなあ」という事件が2件。その業務中、ワタシはエスカレーターのそばで働いていたのですが、5歳くらいの男の子がお約束どおりエスカレーターで遊んでいて、「ここで遊ばないでねー」と無理メな猫なで声で1回注意、おじいちゃんがそばで見ていたしこれで大丈夫かなあと思いつつ一応見守ってはいたら、下ってくるエスカレーターに登ろうとしやがったんですよ、そのお子様が。あたりまえに転倒、ワタシが駆け寄って抱き上げ救出成功。おじいちゃんは「ほら、お兄さんに謝んなさい」
って。若年寄的には「お兄さん」に満足しつつも、脈拍急上昇の若年寄は息も切れ切れに「もうしないでね」というのが精一杯(猫なで失敗)。つくづくオジイチャン子は三文安いってホントなのかって思わされた出来事でしたよ。ところでなんで子供ってあんなにエスカレーター大好きなんですかねえ?うーん、子供は買い物じゃあ退屈しちゃうよねって平凡な事しか思い浮かばんなあ。なにか新説があったら掲示板へお願いします。
まあそれはいいんです。業務の後所用を足したら自宅へ帰るバスが終わっていたので、くたびれてもいたのでタクシーで帰ったんです。真っ暗な路地を通るので時々ヘッドライトの上向きを点ける訳です。その何度目かの点灯で、八百屋の前に止まっていたワゴン車の助手席で着替え中の女性をピッカリ照射。タクシー車内に気まずい空気が漂ったまま自宅前に到着。脱衣中だったのか着衣中だったのか知らんが、頼むから八百屋の前なんかで路駐して十人中十人が想像しちゃうような事はしないでくれええええええええええええええええ。と「おじさん」困っちゃうの1日だったのでした。
2000年8月6日 「55年」
広島原爆投下から55年が経ちました。朝起きて関口宏と一緒に黙祷しました、危うくそのまま二度寝しそうでしたが。
陳腐な言い方だけれども記憶に銘記し受け継いでいかなくてはいけない日でしょうね。ワタシは広島・長崎に関するどこか政治性と結託したような意見よりも、ただ日本人として自分の祖父母たちの世代が一瞬に大量に生活と生命とを奪われた悲しい日として覚えていきたいと思います。勿論戦争は国民の積極的もしくは消極的協力が不可欠だったわけで戦争責任の一端はあろうし、総力戦であった以上非戦闘員であっても戦火にさらされる事は不可避だったでしょう。でも歴史を見る上で醒めた目を持たなくてはいけないのと同時に、日本人としていや人間として自分の両親や祖父母やもっと以前のご先祖たちが生まれ生きて死んでいった、その現実と今生きている自分との繋がりというものを貴重なものとして感じていく気持ち(ワタシの父は昭和19年生まれなので1歳かそこらで5歳くらいの姉におぶさり20年3月の東京大空襲を逃げ惑ったそうで、これがなければ私の存在自体がありえない訳で、でもこの程度のことは日本人の殆どが関わっているでしょうね。そんな話を聞いたのを思い出しました。)、この二つの感性を併せ持って生きていきたいと、そのように感じた原爆忌でした。
2000年8月1日 「帰ってきた」
昨日の深夜、もう日付は今日でしたが山形より帰宅しました。結局帽子は7月27日付でいった条件とは程遠いシロモノを池袋駅地下通路の催事売店で¥1500で購入。まあ大変な旅でしたが、その辺の内容は近日公開という事で。心残りは行き先で知り合いや親戚が不在で会えなかった事、何箇所かを時間的金銭的に断念した事、加藤紘一の広報ポスターを写真に収められなかった事です。加藤紘一に関しちゃあ、そこら中に加藤紘一連絡所みたいなものがあってそこかしこで目に入るだろうと思ったのに、あいにくバスの中から1回見ただけだった。多分そこかしこが全て支持者であり連絡所である以上わざとらしい看板やポスターが必要ないのだろうという結論に。どおりで鳩山由紀夫のポスターだけは沢山見ることができたのであるが。
ところで関東地方など都市部で最も使えない貨幣であるところの500円玉であるが、山形では煙草だろうが飲料だろうがどの自販機でも利用できたのが、ちょっとした驚きと喜びだった。
2000年7月27日 「オレはまだ大丈夫」
昨日勤め帰りに久々に新宿へ買い物に行った。目指すは老紳士がかぶったら似合いそうな堅牢かつ小粋な麦わらもしくはパナマ帽。友人の買い物(たれ耳犬グッズなど)の後、某K王百貨店へGO。結構充実の品揃えに満足も、どれもこれも頭頂部にカラスを飼ってたりマックロクロスケがまとわりついてたり「ごはんですよ」を塗っている方と同じ状態(つまり頭に吹けば飛ぶものが不自然に乗っかっているだけの状態)なので、Pチョ状態の若年寄に店員さんが見かねて色々試させてくれたが、ワタシの頭サイズに見合った被り物は数ある中で僅か2つ。3Lだの頭囲62センチだのといった稀有なサイズでしか収まらなかったのだ。小学校の頃の黄色い通学帽も58センチできつかったなあとか、そういえばPチョ伊東もアタマデカそうだとか、色々思いは巡ったのだが、結局スーツ姿に麦わらが似合うには途方もない年季が必要だと鏡の中の姿を見て痛感し、自分の無為な頭のデカさとの合わせワザ一本で敢え無く退却。どなたかキングサイズ帽子専門店とか「アタマのデカさにお悩みのアナタに朗報!」とか「NASAの新技術が可能にした・・・」とかをご存知の方がいらっしゃったらぜひともご一報を。(決して黒いハットを探しているのではないのでえみりとかの広告を送らないように)
2000年7月26日 「ヤマガタ」
明日27日から東北へ行って来る。四半世紀生きてきて始めての寝台夜行に乗って山形へ。今回は鶴岡の近隣にある神社の史料調査の補助で行く事になったのだが、ついでに月山登山に庄内・新庄を見て、行けたら山寺にもと目論んでいるところで、大体4泊5日ほどの旅程で行って来る。そもそも若年寄の親の郷里が山形の山奥、もう一山越えれば秋田県という奥地に所在しているので、山形への親近感は殆ど自分の故郷という程なのだが、祖父母が亡くなった事もあって7年ぶりの山形なので、欲張って体力の限り(財布の続く限り)回ってきたい。
山形といえば何だろう?さくらんぼ、ラフランス、将棋の駒、米沢牛、加藤紘一・・・山形イメージベスト5はこんなトコかな。なにかこう25の男が1人フラリ訪れるのに相応しい何かがかの地には無いものだろうか?やっぱり芭蕉かな。「閑けさや・・・」「五月雨を・・・」、うーん何だか半端な教養丸出しだ。月山登山に山寺登って最上川下りそして象潟へ日本海の道を歩く・・・どうやら若年寄は芭蕉にも司馬遼にもなり損ねそうだ。まあしかし、子供時代の夏休みに過ごした風景や新しい山形を見つけられればと思う。
で旅行を前に若年寄の数ある不安要素(不健康などなど)の中で今一番気がかりは、今夏東北へいらっしゃるという某先輩サイトでも心配していた事だが、PHSが(せめて鶴岡・新庄といった都市部で)使用できるかという懸案なのだ。電波云々以前にNTTドコモ様から「7月24日までに支払わないと止めちゃうゾ」という警告文を頂いており、かけても「ただ今お客様の御都合により・・・」とシャットアウトされてしまう事態寸前であるとか、元々若年寄自体が消息不明体質(実態は数週に渡ってゼミを欠席する程度)なので電話どうこうは関係ないとか、そのようにも思えるのだが、行き当たりばったり性格の強い旅行であるので、夜コンビニさえない駅で財布には福沢・新渡戸のみ・テレカ無しという事態は避けたいのだ(地方で夜財布に夏目のみ、PHS電池切れという事態は経験済みだが)。このサイトが8月になっても更新が無い場合は、ホントに消息不明なので宜しくお願いしたい。
2000年7月22日 「クーラー」
今日ようやく悲願のエアコンが到着した。我が家は団地のはじっこなので非常に外気温に影響されやすく、特にわたしの部屋は夏冬拘らず年中有毒な湿気に満ちており、そして夏は必要以上に暑く冬は北向き故に陽光も差し込まず冷え込む部屋だったのである。今回のエアコン導入によって漸くそうした劣悪な生活環境におさらばなので、若年寄的には非常にウキウキなのだが、目減りした銀行口座はいかんともしがたく、既に友人に「冷え過ぎに気をつけて」と釘を刺されるところは、若年寄が若年寄である所以だなあと感じられてならない。まあ今日はそんなわけで、世のスポーツファンの9割がオールスターを見ているであろう中で、テレビ埼玉の浦和−甲府戦などを見つつ存分に冷やされたのである。
2000年7月15日 「東京ルール」
もうHP開設から2カ月が経つのに、未だに更新が滞ってしまって先行きが思いやられ、某掲示板サイトさんにダメだしを頂いている今日この頃です。
今日の昼頃、某さんのお膝元T川駅で遭遇した出来事。
当ページ管理者である若年寄は若年寄であるがために、ホームからエスカレーターで改札へ向かったのであるが、
前方から「迂俄ィ唖罵牙薇誼ぁ°姥拿禦」と活字にすると文字化けのような罵声(ハイライトを1日2箱吸ってタンがからまった阿藤海の声17人前くらいの声量と声質)が轟いたんですよ。見ると安室ちゃんのダンナさん(サムさん)とその仲間(trfのDJ)を足して長○剛が憑依したような男が、エスカレーター降りてからも50くらいのおばさんに食い下がってわめいていた訳で、まあ彼の言っていた事を好意的に訳すると、
「おばさん、エスカレーターで歩かない人は右側だよ」という「東京ルール」について主張していたようだった。
「エスカレーターはラク」するものではなくて「エスカレーターはより速く登る」モノという関西の方とは違って、
東京では「登る人は右、ラクする人は左」っていう暗黙のルールがあり、ルール違反にイライラを募らせた経験は、彼だけでなく誰にでもあるわけだが、彼の罵声に振り返った数十人は、誰一人彼の「東京ルール」に共感を覚えた人間は居なかったのではないか?結局彼の罵声そのものがマナー違反であって、例えば電車内で携帯電話で話すコギャルに文句を聞こえよがしに放言する酔っ払いに類するもので、結局「オマエの方が迷惑なんだよ」的な行為なんでしょう。ルールやマナーに依拠した言質で利害を代弁していても、例示の酔っ払いはコギャルのマナー違反への批判よりも、寧ろ社会を支えるオジサンによる軽薄な若い世代への掣肘を電車内の皆皆様に大アピール(つまりは独り言)といった観が拭いきれず、エスカレーターの彼は個人的感情の発散(というかコワさ大発動だから)というどっちも自己満足の部類だから支持を得られんのだな。彼らが居なけりゃコギャルやおばさんは少なくとも白眼視されるわけで、結局公共の場でのルールとかマナーといった正義なんて相対的なものなんだなーと思うのだけれども、タクシー待ちで外国人と大喧嘩した事のあるワタシとしては、ルールとかマナーはある程度の集団的な強制力がなくちゃと思われてならなく、そんで今回のエピソードで一番損したのは怒鳴られた(が意に介せず去った)おばさんでも、罵声に驚かされた(が半数くらいは何を言ってたんだかさっぱりの)ギャラリーでもなく、結局イライラを募らせただけのサム似の彼である気がして、チンピラをしてもオバサンに敵わない事を発見した1日だった。
2000年5月23日
はじめまして。とりあえず開設する事にしました。今後も多くのご来訪をお待ちしていますです。
「若年寄日記」のネーミングですが、いいものが思い浮かばず、こうなりました。「不健康生活記」とか「喫煙養生記」とかいろいろ考えた末の結果なのですが。何かお気になった点など、色々ご指摘・ご指導よろしくお願いします。
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